主に朱殷更新情報 あとは気まぐれ
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文化祭やったね!終わったね!!祭り終わったね!
ああ。orz
そうですねここは落ち込むところですね。
初日、二日目ともに漫研で仕事しておりました。特に二日目。
初日は漫研の御仕事場に人がたむろしていたので、屋上の手前の人が来ないところでポストカード制作していました実は。あつらえたように机と椅子がおいてあったんだぜ。
二日目は最初から最後まで漫研にいました。
正直先輩がずっといるのって後輩にはウザイんだろうなあって(私の学年でそういう話を良く聞いたので)(実際我が物顔で座っているのを見て引いた)思って途中で抜けようと思ってたんですがタイミングのがしました。客が途切れなかったと言い訳してみる。
…すみません…。
その所為で塩焼きの鮎(※HN)の約束を反故にしてしまいました。
…本当にすみませんでしたorzもう本当に…
甘えちゃうんです…
また、弓道の方にもあんまり顔出しませんでした。
まあ弓道に関しては先輩いると威圧感につながるから、まあいいかな。個人的には。演舞成功したんでしょうね。うんうん。だってぺちこちゃん頑張ってたし。私もできるだけ早起きしたし。ね?
…すみません…(デジャヴ)。
で、散々描き殴った後片付けも手伝って(当然の義務なんだぜ!)調子こいて吉祥寺徘徊して太鼓ドンドーンってやったら右腕が痛いです。
………てへ。
ああ。orz
そうですねここは落ち込むところですね。
初日、二日目ともに漫研で仕事しておりました。特に二日目。
初日は漫研の御仕事場に人がたむろしていたので、屋上の手前の人が来ないところでポストカード制作していました実は。あつらえたように机と椅子がおいてあったんだぜ。
二日目は最初から最後まで漫研にいました。
正直先輩がずっといるのって後輩にはウザイんだろうなあって(私の学年でそういう話を良く聞いたので)(実際我が物顔で座っているのを見て引いた)思って途中で抜けようと思ってたんですがタイミングのがしました。客が途切れなかったと言い訳してみる。
…すみません…。
その所為で塩焼きの鮎(※HN)の約束を反故にしてしまいました。
…本当にすみませんでしたorzもう本当に…
甘えちゃうんです…
また、弓道の方にもあんまり顔出しませんでした。
まあ弓道に関しては先輩いると威圧感につながるから、まあいいかな。個人的には。演舞成功したんでしょうね。うんうん。だってぺちこちゃん頑張ってたし。私もできるだけ早起きしたし。ね?
…すみません…(デジャヴ)。
で、散々描き殴った後片付けも手伝って(当然の義務なんだぜ!)調子こいて吉祥寺徘徊して太鼓ドンドーンってやったら右腕が痛いです。
………てへ。
ある者がいた。
母親は不本意にみごもり、その者を産み落とした。
母親は憎悪の籠った瞳でその者を見た。
精神的、肉体的虐待の果てにネグレクト。
法がその者を保護する頃には、もう全ては壊れていた。
その者は愛を知り得なかった。
人を壊すことしか知らなかった。
保護された法に罰せられる時、その者は呟いた。
「自分なんて生まれなければ良かったのに」
「生まれなければ良かった」と言うのは結構通俗的な表現ですね。ってまあこれは前置きの様なものです。
ロングフルライフ訴訟と言うのをご存知でしょうか?
私も最近知ったのですけど(友達が受けた試験の現国の問題文だった)、とても奇妙な訴訟なのです。
平たく言ってしまえば、自分の「生まれない権利」を主張する訴訟です。
例えば、染色体異常などで生涯苦しむと分かっていたら、中絶してもらえていた。生まれたことで自己に生じた損害を中絶を勧めなかった医師らに対して賠償してもらおうといった感じです。
英語でいうと、とてもわかりやすいですね。
“wrongful life”
ああ、そういうのもありか、と言うのが最初の感想でした。
全ての人が完全な形で生まれる訳ではありません。私も先天性股関節脱臼なんてものだったし(5歳だかで完治)、世の中にもその他先天的障害を抱えている人は少なくありません。
障害ではないけれど最初に私が書いたものがその例え…の様なものです。
ああいう状況にいる人も世の中に少なからずいらっしゃる訳で、それでも声高に「生」の価値を絶対的に決めつけてしまうのはどうなんでしょう?生きているだけで素晴らしいなんてこと言えるくらい、この世界は綺麗なものばかりなんだろうか?そんなことを考えさせる訴訟です。
また、当然かもしれませんがロングフルライフ訴訟は障害を持った人間本人でなく親が起訴するという事例が多いのです。この場合はロングフルバース訴訟と呼ばれるそうです。
2001年11月28日、フランスの最高裁で「先天的な身障者は生まれてこない権利がある」という判決がくだされました。
ダウン症候群を持って生まれた6歳男児の母親が、妊娠中に自分を診察した医師が息子の障害を発見していれば中絶していたはずだと男児の抱えた障害への賠償を求めたものです。この母親は既に一次賠償金を受け取っていましたが、フランス最高裁はこの男児の「生まれてこない権利」を認めて賠償金の増額を命じました。
なぁんか引っかかりませんか?
問題点が大きく3つほどあります。
① では先天的な身障者には逆に「生まれてくる権利」がないのか
② 医師は胎児に障害を発見した場合、トラブルを避けるため中絶を勧めるようになってしまうのではないか
③ 母親が「生まれてこない権利」を主張した場合本人の意思はどうなるのか
また全体に共通して子どもの「生み分け」というのも倫理的問題として発生してきます。もしも中絶などを行って子どもを選択できるなら、じゃあ男の子じゃなかったら中絶したい、というのはどう考えても勝手な意見ですよね。
①の観点からフランスの身障者団体は「国が障害者として生きるより死んだ方が良いという決定を下した」と大きく反発しています。
ロングフルバース訴訟は特に悲しい訴訟だと感じました。
親が障害をもった子どもに生まれてこなければ良かったと思えてしまうほど愛を感じていないケースも、子どもにハンデを持たせてしまった自責の念から訴訟を起こすケースも、賠償金を払われたとして、心が満たされるのでしょうか?社会的には訴訟や事例として意味があるかもしれないけれど、本人たちは法・倫理・医学と戦ってなにか得られたのでしょうか?それとも、やり場の無い理不尽さをぶつけた?
ケースバイケース。答えはないし、求めてもいません。ただの戯れ言です。
さて。
いきなりこんな重い内容をブログに書いてどうした?!って感じでしたよね(苦笑)
いや本当試験問題文読んで興味持っただけなんだけど。
『<個>からはじめる生命論』(加藤秀一著)
っていうものに出てきました。非常に興味深くて、まだちょっとだけど掘り下げてみた感じです。そもそも読み終わってないし(笑)
特に興味をそそられたのは無の状態への賠償、ってところ。
ええと、「生まれなかった状態」=無、ですよね?それに払われる賠償金って存在すんのかって話ですよ。
賠償金って言うのは相手に与えた損失に対して埋め合わせの為に損失に見合った金額を賠償する、というのが定義ですよね。その「埋め合わせ」の尺が——生命の価値によって変わってくる。
ハンデを持った「生」が「無」の状態よりもマイナスの場合、医師たちへの支払い義務が生じる…かもしれません(実例は出てるけど断言が憚られる)。しかし、どんな状態でも全ての「生」に価値があるんだと定義するならば、「無」の状態に比べて損失は発生していないと言う訳です。
中々脳味噌使いますよねー。
今日のお遊びはこん位で。駄文でした。
母親は不本意にみごもり、その者を産み落とした。
母親は憎悪の籠った瞳でその者を見た。
精神的、肉体的虐待の果てにネグレクト。
法がその者を保護する頃には、もう全ては壊れていた。
その者は愛を知り得なかった。
人を壊すことしか知らなかった。
保護された法に罰せられる時、その者は呟いた。
「自分なんて生まれなければ良かったのに」
「生まれなければ良かった」と言うのは結構通俗的な表現ですね。ってまあこれは前置きの様なものです。
ロングフルライフ訴訟と言うのをご存知でしょうか?
私も最近知ったのですけど(友達が受けた試験の現国の問題文だった)、とても奇妙な訴訟なのです。
平たく言ってしまえば、自分の「生まれない権利」を主張する訴訟です。
例えば、染色体異常などで生涯苦しむと分かっていたら、中絶してもらえていた。生まれたことで自己に生じた損害を中絶を勧めなかった医師らに対して賠償してもらおうといった感じです。
英語でいうと、とてもわかりやすいですね。
“wrongful life”
ああ、そういうのもありか、と言うのが最初の感想でした。
全ての人が完全な形で生まれる訳ではありません。私も先天性股関節脱臼なんてものだったし(5歳だかで完治)、世の中にもその他先天的障害を抱えている人は少なくありません。
障害ではないけれど最初に私が書いたものがその例え…の様なものです。
ああいう状況にいる人も世の中に少なからずいらっしゃる訳で、それでも声高に「生」の価値を絶対的に決めつけてしまうのはどうなんでしょう?生きているだけで素晴らしいなんてこと言えるくらい、この世界は綺麗なものばかりなんだろうか?そんなことを考えさせる訴訟です。
また、当然かもしれませんがロングフルライフ訴訟は障害を持った人間本人でなく親が起訴するという事例が多いのです。この場合はロングフルバース訴訟と呼ばれるそうです。
2001年11月28日、フランスの最高裁で「先天的な身障者は生まれてこない権利がある」という判決がくだされました。
ダウン症候群を持って生まれた6歳男児の母親が、妊娠中に自分を診察した医師が息子の障害を発見していれば中絶していたはずだと男児の抱えた障害への賠償を求めたものです。この母親は既に一次賠償金を受け取っていましたが、フランス最高裁はこの男児の「生まれてこない権利」を認めて賠償金の増額を命じました。
なぁんか引っかかりませんか?
問題点が大きく3つほどあります。
① では先天的な身障者には逆に「生まれてくる権利」がないのか
② 医師は胎児に障害を発見した場合、トラブルを避けるため中絶を勧めるようになってしまうのではないか
③ 母親が「生まれてこない権利」を主張した場合本人の意思はどうなるのか
また全体に共通して子どもの「生み分け」というのも倫理的問題として発生してきます。もしも中絶などを行って子どもを選択できるなら、じゃあ男の子じゃなかったら中絶したい、というのはどう考えても勝手な意見ですよね。
①の観点からフランスの身障者団体は「国が障害者として生きるより死んだ方が良いという決定を下した」と大きく反発しています。
ロングフルバース訴訟は特に悲しい訴訟だと感じました。
親が障害をもった子どもに生まれてこなければ良かったと思えてしまうほど愛を感じていないケースも、子どもにハンデを持たせてしまった自責の念から訴訟を起こすケースも、賠償金を払われたとして、心が満たされるのでしょうか?社会的には訴訟や事例として意味があるかもしれないけれど、本人たちは法・倫理・医学と戦ってなにか得られたのでしょうか?それとも、やり場の無い理不尽さをぶつけた?
ケースバイケース。答えはないし、求めてもいません。ただの戯れ言です。
さて。
いきなりこんな重い内容をブログに書いてどうした?!って感じでしたよね(苦笑)
いや本当試験問題文読んで興味持っただけなんだけど。
『<個>からはじめる生命論』(加藤秀一著)
っていうものに出てきました。非常に興味深くて、まだちょっとだけど掘り下げてみた感じです。そもそも読み終わってないし(笑)
特に興味をそそられたのは無の状態への賠償、ってところ。
ええと、「生まれなかった状態」=無、ですよね?それに払われる賠償金って存在すんのかって話ですよ。
賠償金って言うのは相手に与えた損失に対して埋め合わせの為に損失に見合った金額を賠償する、というのが定義ですよね。その「埋め合わせ」の尺が——生命の価値によって変わってくる。
ハンデを持った「生」が「無」の状態よりもマイナスの場合、医師たちへの支払い義務が生じる…かもしれません(実例は出てるけど断言が憚られる)。しかし、どんな状態でも全ての「生」に価値があるんだと定義するならば、「無」の状態に比べて損失は発生していないと言う訳です。
中々脳味噌使いますよねー。
今日のお遊びはこん位で。駄文でした。